2015年7月16日木曜日

水木しげるロード(境港)散策と大山(伯耆富士)

水木しげるロード(境港)散策と大山(伯耆富士)

2015年7月、大好きな水木しげるの妖怪たちのブロンズ像を見るために境港市へ行った。それに長年の夢だったJR伯備線に乗って大山(伯耆富士)をみることも実現できた。大山(だいせん)は鳥取県にある標高1,729mの火山で中国地方 の最高峰である。

本当に久しぶりにJRローカル線の旅を楽しんだ。岡山までは新幹線だがそこから特急「やくも」に乗って伯備線で米子へ行き、そこからは単線の境線で境港駅(愛称は鬼太郎駅)に到着した。さかなと妖怪にあえる駅、境港

正確にいうと、岡山から山陽本線で倉敷、倉敷から伯備線で伯耆大山、そこから山陰本線で米子駅下車。、米子からは単線の境線で境港駅である。山陽本線と山陰本線を通ったことになる。

米子から弓ヶ浜半島を行く境線は「ねこ娘列車」と「鬼太郎列車」が連結された2両編成であった。列車の窓から見ると周りは砂山さえもない平らな砂地でネギなどが植えられている。ワンマン運転で駅名などの自動放送の声は「ねこ娘」の声まねだ。

「ねこ娘」は好きだが可愛い猫というより、おとなしい女に見えるが「猫かぶり」でいざとなると化け猫に変身するから苦手である。美人の猫にはちょっと興味があった。子供の時に見たTVシリーズ「バットマン」に出てくる「キャットウーマン」が一番好きだった。

水木しげるは境港出身で駅前からの水木しげるロード(全長800m)両側には妖怪ブロンズ像が150体以上配置されており一つ一つ見ていくと懐かしく楽しい。ちょっと像が小さいのが残念であった。

演芸のネタにしている「口裂け女」の像もしっかりと鑑賞してきた。「帰ってきた口裂け女」という歌まで作ったのに今はお蔵入りである。

「ゲゲゲの鬼太郎」のファンで昭和ロマンを楽しむ会でも当然TVアニメの主題歌を歌っている。この主題歌のメロディも街のところどころで流れていた。いまの子供たちは鉄腕アトムより「ゲゲゲの鬼太郎」の歌の方をよく知っている。

妖怪を写真付きで紹介している妖怪ガイドブックを120円で買った。妖怪スタンプラリーの台帳にもなっていてお店の前に置いてある37個のスタンプを集めると完走証がもらえると聞き小学生のように闘争心に火がついてしまった。平日であったが妖怪めぐりをしている観光客も結構いた。ねこ娘やねずみ男のぬいぐるみも現れて握手したり記念撮影に参加したりしていた。暑いのに大変なお仕事だ。

7月の暑い中、やっと集めて駅前のみなとさかい交流館にある観光案内所へ持っていった。直ぐもらえるとおもったら、女性職員はなんと全ページをチェックし始めた。1個だけ押し忘れが発覚して再度暑い街に出て最後のスタンプを押して完走証をゲットした。







なんと妖怪の街のシンボルとして駅前交番が「鬼太郎交番」になっていて交番の前に最後のスタンプが置いてあった。お巡りさんが押してくれればいい思い出になったであろうがそんなことはありえない。

「鬼太郎交番」の看板には目玉おやじの照明が付いていた。









伯備線の旅も今回の目的であった。伯備線(はくびせん)は山陽地方と山陰地方とを結ぶ連絡路線であり、中国山脈を越えて岡山県と鳥取県を結んでいる。岡山駅で伯備線ホームは見ていてあれに乗れば山越えして鳥取西部へ行けるとは思っていたが見るだけであった。

岡山側は南へ流れる高梁(たかはし)川の渓谷を眺めながら中国山地を登っていく。特急「やくも」途中停車駅は、倉敷、備中高梁、新見である。この辺りは石灰岩が取れるようで砕石場や大きな工場が谷間に散見された。谷田峠トンネルを抜けると鳥取県である。列車の動力音も小さくなり下り坂であることが体感できた。

ここからは北に流れる日野川に沿って列車は進んでいく。水量豊富できれいな川であった。鳥取県側の途中停車駅は根雨または生山である。曲線と急勾配が多く渓谷を眺めていると飽きない。

伯耆溝口駅あたりで大きな鬼の像が見えた。このあたりから東に大山が見え始める。大きな川幅の日野川になり米子平野になり始めた岸本駅から伯耆大山駅で大山がよく見えた。またちょうど水田の稲もきれいであった。大山が見え始めるとあっというまに米子駅であった。

確かに初めてみた大山(伯耆富士)は雄大で美しい。高い山なので雲がかかったりしてどんどん景色は変化していく。帰りの列車で見たほうがきれいだった。

伯耆大山を見て育った学生時代の友人が話してくれた大山をどうしても見てみたかったがかなわなかった。手遅れとなってしまったがやっと眺めることができた。時代は変わっても自然は美しい。

   「誰とみる 青い大山」 「どこで見る 同じ大山」


伯耆町 岸本町 米子市 境港市 大山

2015年6月11日木曜日

父の満州での軍隊生活 (8) 歩兵砲

父の満州での軍隊生活 (8)  歩兵砲

帝国陸軍の歩兵大隊には歩兵砲隊や機関銃中隊などがあり父もこれらの部隊に所属したこともあったようだ。歩兵の野戦訓練では戦車、歩兵砲、重機関銃などを用いて総合的な訓練が行われておりその写真も残っていた。

九二式重機関銃がある写真を探したがなぜか見つからなかった。今回は歩兵砲を取り上げたい。父は奉天甲種幹部候補生隊へ入隊して歩兵砲隊に編入したようである。

九二式歩兵砲は、大日本帝国陸軍の歩兵砲で終戦までに約3000門製造されたらしい。1個歩兵大隊に対し本砲2門を擁する大隊砲小隊が付随するために「大隊砲(大隊歩兵砲)」の通称がある。(砲口径70mm、砲身長790mm、砲重量204kg、最大射程距離2,800m)
写真の歩兵砲は一枚物鋼鈑製の車輪。

あまり命中精度が良くないので通称「大隊砲」を「だいたい(大体)砲」といったらしい。おおよそ当たるという意味か。

「八八式」と記載されてある木箱の中身は砲弾の信管のようだ。ネットで調べると、八八式信管は、昭和4年に内令兵37号により兵器採用された口径12~10糎砲通常弾用の弾頭着発信管。そして、昭和18年には大口径砲用の零式通常弾にも用いられた。

今見ればおもちゃのような歩兵砲であるが砲本体は204kgもある。移動時は駄馬1頭で牽引するか、歩兵10人で分解して担いで移動することも可能だったそうである。もちろん戦場まではトラック等に載せて移動するのであろう。

写真では歩兵砲を6人がかりで草原を引っ張って移動している。弾丸は別途運搬する必要がある。
写真は九二式歩兵砲の砲弾であるが、「弾薬は5発入りの弾薬箱に収められ重量は30kgあり、兵士1人が1箱を担いで運ぶか駄馬1頭で4箱を運んだ」とある。兵隊さんが30kgの弾薬箱を背負って行っても5発しか撃てないとは!20名の歩兵が弾薬箱を運んでやっと100発歩兵砲が撃てるわけだ。





九二式重機関銃だって一分間に何百発撃てるといっても実際には長期間連続しては射撃できないと思う。銃弾をすべて人力で担いで銃座まで持ってくるところがボトルネックになってしまうだろう。

現代は農業、工場、サービス業などあらゆる分野が機械化、コンピュータ化されていることを思うと昔は戦争を含めすべて人に頼っていたんだなあと実感した。もちろん米軍の歩兵は機械化されていたのだろう。


軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

2015年1月1日木曜日

昭和初期の家族写真 幼児・小学生・女生徒・女学生・学生

昭和初期の家族写真 幼児・小学生・女生徒・女学生・学生

暮れに実家の書棚を整理していると母の実家の家族写真が出てきた。撮影は昭和2年3月(1927年)で宮崎県の都城であると思われる。私の母方祖父夫婦と子供7名で赴任先の自宅(借家)の庭で撮影している。母は末っ子で当時3歳でそのあたりの田舎では珍しかった洋装である。母は祖母が40歳を過ぎてからの子供である。

昭和2年12月には日本最初の地下鉄(上野~浅草)が開通した。昭和2年の流行歌は北原白秋作詞の「ちゃっきり節」がある。昭和3年には藤原義江が歌った「出船」や「波浮の港」が流行した。

当時は女性は基本的に和服で男性は洋服のようである。また、この写真から当時の学生の服装がわかって面白い。

左から1番目の次男は小学生だと思われる。2番目の長男は旧制第七高等学校理科(鹿児島)の学生で学生服、右端は高等女学校の生徒であろう。

右から2番目と4番目の母の姉たちは下宿して官立の女子高等師範学校(女高師)へ行っていた。右から4番目の姉は着物に袴姿であることから在学中で女学生だと思われる。右から2番目の姉は袴を着けていないのでこの時にはすでに卒業して教員になっていたのかもしれない。

当時は子供が多く、高等教育を受けるためには都会へ出て行く必要がありずいぶん教育費がかかったであろうと思う。今と違ってずいぶん質素な生活をしていたようだ。

子供たちの中で秀才は長男と右から2番目の姉だったそうである。長男は旧制中学、その姉は高等女学校、それぞれ4年修了から飛び級で旧制高等学校と女子高等師範学校へ入学している(旧制中学、旧制高等女学校の就学年数は5年)。長男はその後、京都帝大の理学部へ進学し教員となった。

ずいぶん前に聞いた母の話によれば教員になった優秀な姉は戦後にずいぶん惨めな思いをしたそうである。

敗戦後、アメリカと同じように教員は大学卒でないと駄目だということになり、大卒でない教員は全員研修教育を受けたそうである。

戦前には官立の高等師範学校や女子高等師範学校を卒業した教員は国のお墨付きがあり、私立大学卒業の教員よりも高給であったそうだ。ところが戦後は「教員は大卒」ということになり研修を受けたり、給料が下がったりいいことはなかったそうだ。

おまけに自分では「飛び級で進学した秀才」だと思っていた姉は、「女学校を4年しか修めておらず学業年数が足りない」とまで言われたそうだ。長男は同じ飛び級で進学したが帝大卒の資格(学士)を持っているので当たり前だがおとがめなしであった。世の中が変われば評価も変わるのである。

現在も秀才で高校2年で中退して大学進学している特例もあるが大学卒業できなければ大卒でもないし高卒でもなくなり同じようなことが起きるだろう。

まあ、われわれのような普通レベルの人間には「飛び級」は関係ないことである。浪人して大学へ行く受験生たちからすると、どうやったら高校3年間の勉強を2年間で終了して希望の大学へ進学することができるのであろうと不思議であろう。

小学校,旧制中学校,旧制高等女学校,旧制女子高等師範学校(女高師),旧制高等学校,帝国大学

2014年10月11日土曜日

父の満州での軍隊生活 (7)

軍事演習の中でも有名な観光地、勝利した日露戦争の戦跡を訪問しているのがあった。たまに息抜きと兵隊さんが元気に満州で任務についていることを内地の家族に記念写真で知らせることも重要なことだったのであろう。

父の満州での軍隊生活 (6)でも紹介したが「水師営の会見」の場所となった旅順の水師営会見所での記念写真を残している。これ以外に冬にも訪れて写真を残していた。

前回は小グループに分かれての記念撮影だが冬季は集団で撮影している。耳あての付いた防寒帽をかぶっていることから満州の冬はやはり寒そうである。



旅順付近には日露戦争の戦跡がたくさんある。石碑のある山頂付近での演習中の写真もあった。

203高地(にひゃくさんこうち)が有名だがこれはどこのなにの石碑であろうか。





もちろん高地よりも広い平地での演習が主だったようである。場所は不明であるが鉄道の小さな駅を降りて徒歩で向かっている写真もあった。
軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

2014年9月30日火曜日

父の満州での軍隊生活 (6)

父は甲種幹部候補生を命ぜられ歩兵科機関銃中隊編成定員外となって奉天甲種幹部候補生隊へ入隊して無事に卒業して歩兵科見習士官となった。その後、少尉から中尉となり終戦(昭和20年8月)にポツダム大尉となり昭和21年3月に博多に上陸し復員した。
 
歩兵科の所属は歩兵砲中隊や機関銃中隊に所属していたようだ。途中で温厚な性格と徴兵された将校だったためか「旅順関東軍下士官候補者区隊長」にもなっていた。たぶん教育隊であろう。

父の写真の中には軍事訓練の写真がたくさんある。ただ厳しい野戦訓練ばかりをやっていてもやる気がおこらないのであろうか訓練と称して満州各地の名所などの観光もしっかり取り入れている。もちろん兵隊さんが日本の家族に送る記念撮影もしていた。

軍隊といえどもやる気を出させあきさせない企画というのが大切なのだろう。今でも会社の研修旅行で全国の工場、事業所を訪れたついでにさらりと観光見物して記念撮影をしてくれたりした。

観光地は勝利した日露戦争の戦跡をめぐるのが一般的なようだ。
トップの写真はお墓なのだろうか、ピラミッドのような建造物である。
両側の空が不自然であり場所を特定されないように修正されている可能性があるとの指摘もあった。

「水師営の会見」の場所となった旅順の水師営会見所小グループに分かれての記念撮影。軍刀を持っているのが父。

(日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された。日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将

モスク?、寺院のようである。

厳しい軍事訓練の合間にちょっとした観光見物をしたりする息抜きは現代社会でも大切である。










軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

2014年8月31日日曜日

父の満州での軍隊生活 (5)

徴兵された若者たちへの奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練は厳しいものであったであろう。同期会誌によると非常演習「連珠山」行軍といったことも行われたと記載している。

しかし座学や軍事訓練以外にスポーツもやっていた。スポーツといっても剣道、銃剣道や馬術であるが、写真を見ると若者たちにとっては息抜きの楽しい時間のようであった。


満州から持ち帰って写真には当然と思われるが場所も日時も氏名も何も書かれていない。

場所が不明であるが広い馬場(乗馬練習場)の写真もあった。






幹部候補生の授業には箱庭のような立体的な地図を用いた図上の作戦会議もあった。

いろいろな写真を見る満州の予備士官学校といってもむしろ内地よりも優れた設備や教官によって教育・訓練が行われているようだ。ノモンハン事件があった後であり、ソ連との戦争も必ず満州で始まると予測していたのだろう。

父は文系だったためか終戦まで徴兵されていたが甲種幹部候補生隊の同期には技術系出身なのか卒業後に日本に帰り三菱重工業神戸造船所や東北振興アルミ(郡山)等に勤務していた同期もいた。戦争遂行のためには軍人も必要だが軍需産業の技術者がより必要なのであろう。

神戸造船所や東北振興アルミ工場(郡山)は米軍の空襲を受けている。必ず空襲される軍需工場勤務では対策は逃げるだけなのでそれはそれで大変だったであろう。

ボーキサイトからのアルミ精錬がなければ飛行機も飛ばないのでアルミ産業は必須の産業であったのだろう。戦争末期にはアルミ不足で木製の機体やプロペラが作られた。

また、戦時中から「東北振興」が考えられていたとはすごいと思った。戦時中から「東北振興」が考えられていたとはすごいと思った。1931(昭和 6 )年及び1934(昭和 9 )年の冷害凶作と1933(昭和 8 )年の昭和三陸津波を契機に国策として、東北 6 県の振興を図るために東北振興事業が展開された。東日本大震災の復興事業は2度目の東北振興なのであろうか。

東北振興アルミニューム:昭和13年にアルミニウム製造が開始された。終戦後、ジャパナイト工業と名称変更したが、昭和40年には閉鎖された。東北振興アルミは日満アルミニウム富山工場からアルミナの供給を受けた。

1933年に日満アルミニウム株式会社としてアルミニウムの製造を開始。日満アルミニウム株式会社は1943年に昭和電工株式会社に吸収合併され昭和電工株式会社富山工場となる。

軍隊 満州 陸軍 歩兵 

2014年7月18日金曜日

父の満州での軍隊生活(4)

父の思い出の最大のものはやはり奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練であろう。

高等専門学校や大学を卒業して就職してそれぞれの人生を描いていた若者が徴兵されて満州に派遣されてきた。

ここが会社でいえば新人教育、社会人教育の場であり、軍隊でのすべてのことを学んだ場所であろう。徴兵猶予になっていた学生は卒業するとすぐ徴兵された。

集合教育を受けている写真があるがまだみんな学生のような顔をしている。今でいえば大学4年生から修士課程(マスター)ぐらいの年齢であろう。

この予備士官学校で知識だけでなくその知識を使って完全武装で夜間行軍するのに耐える体力も付けていた。

小さな各グループに分かれてあるテーマについて議論、検討して解決策を出すような小グループ活動もやっていたようである。

また、座学や軍事訓練だけでなく、銃剣道、剣道、馬術などを楽しそうにやっている写真も残っている。戦争中とはいえ部活のノリのようであった。

そして、なんといっても一番楽しいことはやはり食事(飯)であろう。

同じ釜の飯を食う」

軍隊とは、武器を持っている、団体生活、階級があるの3条件をすべて満たす必要がある。武器だけ持っていても軍隊ではない。もちろん武器は大切だが、起居を共にする団体生活で同じ釜の飯を食うことが大切だろう。これが親しみと団結力が増してくる。しかし階級がないと同好会の合宿になってしまう。



 
日本軍も米英軍も、どの国の軍隊も「誰のために戦うのか」という問いに対する答えは同じであるらしい。

「誰のために戦うのか」に対する公的回答には祖国のため、家族のため、天皇陛下のため、女王陛下のため、大統領のためともっともらしい答えがたくさんある。

真の答えは「仲間(バディ)のため」であるそうだ。
バディ(buddy): 男性同士の友人・仲間・相棒




攻撃するとき後方部隊が援護射撃をしなかったら先に行く部隊はやってられないし、だれも加わらないだろう。死者・負傷者が増えて仲間が減り結局自分もやられる。危険だからと各人が責任放棄すると損害が増える。

退却するときもだれかが「しんがり」となり、最後尾で追っ手と戦いながら本隊を逃がす役目をやらないといけない。全員が一目散に逃げると全滅してしまう。これは戦国時代からやられている退却の基本であろう。


また、本隊が進むときに斥候となる優秀な兵士が必要となる。この任務も非常に危険であるが本隊が安全に目的を達することができるかこれによって決まる。
斥候:敵状などを偵察する少数の兵士

父たちを一から鍛えて一人前の将校にしてくれた人間的にも尊敬していた教官はこの斥候中に戦死した。父たち同期の追悼文集に驚きと悲しみ、そして感謝の気持ちを記載していた。追悼文集についてはまたの機会に紹介したい。

本書ヲ謹ミテ吾等ノ教官 故土屋大尉殿ノ霊前ニ捧ゲ冥福ヲ祈リ奉ル

判明セル当時ノ状況以下ノ如シ
「昭和18年5月12日、折柄ノ猛雨ヲ侵シXXX南方地区ノ地形偵察中遂ニ不帰ノ客トナラル」

教え子たちは戦争の現実と「仲間のために戦うこと」を知らされたのであろう。


われわれの時代や今の時代の日本は平和でありうれしいことだが「治安の夢」にふけらないことも大切で戦争にならないような備え、対策も必要であろう。
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