2014年10月11日土曜日

父の満州での軍隊生活 (7)

軍事演習の中でも有名な観光地、勝利した日露戦争の戦跡を訪問しているのがあった。たまに息抜きと兵隊さんが元気に満州で任務についていることを内地の家族に記念写真で知らせることも重要なことだったのであろう。

父の満州での軍隊生活 (6)でも紹介したが「水師営の会見」の場所となった旅順の水師営会見所での記念写真を残している。これ以外に冬にも訪れて写真を残していた。

前回は小グループに分かれての記念撮影だが冬季は集団で撮影している。耳あての付いた防寒帽をかぶっていることから満州の冬はやはり寒そうである。



旅順付近には日露戦争の戦跡がたくさんある。石碑のある山頂付近での演習中の写真もあった。

203高地(にひゃくさんこうち)が有名だがこれはどこのなにの石碑であろうか。





もちろん高地よりも広い平地での演習が主だったようである。場所は不明であるが鉄道の小さな駅を降りて徒歩で向かっている写真もあった。
軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

2014年9月30日火曜日

父の満州での軍隊生活 (6)

父は甲種幹部候補生を命ぜられ歩兵科機関銃中隊編成定員外となって奉天甲種幹部候補生隊へ入隊して無事に卒業して歩兵科見習士官となった。その後、少尉から中尉となり終戦(昭和20年8月)にポツダム大尉となり昭和21年3月に博多に上陸し復員した。
 
歩兵科の所属は歩兵砲中隊や機関銃中隊に所属していたようだ。途中で温厚な性格と徴兵された将校だったためか「旅順関東軍下士官候補者区隊長」にもなっていた。たぶん教育隊であろう。

父の写真の中には軍事訓練の写真がたくさんある。ただ厳しい野戦訓練ばかりをやっていてもやる気がおこらないのであろうか訓練と称して満州各地の名所などの観光もしっかり取り入れている。もちろん兵隊さんが日本の家族に送る記念撮影もしていた。

軍隊といえどもやる気を出させあきさせない企画というのが大切なのだろう。今でも会社の研修旅行で全国の工場、事業所を訪れたついでにさらりと観光見物して記念撮影をしてくれたりした。

観光地は勝利した日露戦争の戦跡をめぐるのが一般的なようだ。
トップの写真はお墓なのだろうか、ピラミッドのような建造物である。
両側の空が不自然であり場所を特定されないように修正されている可能性があるとの指摘もあった。

「水師営の会見」の場所となった旅順の水師営会見所小グループに分かれての記念撮影。軍刀を持っているのが父。

(日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された。日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将

モスク?、寺院のようである。

厳しい軍事訓練の合間にちょっとした観光見物をしたりする息抜きは現代社会でも大切である。










軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

2014年8月31日日曜日

父の満州での軍隊生活 (5)

徴兵された若者たちへの奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練は厳しいものであったであろう。同期会誌によると非常演習「連珠山」行軍といったことも行われたと記載している。

しかし座学や軍事訓練以外にスポーツもやっていた。スポーツといっても剣道、銃剣道や馬術であるが、写真を見ると若者たちにとっては息抜きの楽しい時間のようであった。


満州から持ち帰って写真には当然と思われるが場所も日時も氏名も何も書かれていない。

場所が不明であるが広い馬場(乗馬練習場)の写真もあった。






幹部候補生の授業には箱庭のような立体的な地図を用いた図上の作戦会議もあった。

いろいろな写真を見る満州の予備士官学校といってもむしろ内地よりも優れた設備や教官によって教育・訓練が行われているようだ。ノモンハン事件があった後であり、ソ連との戦争も必ず満州で始まると予測していたのだろう。

父は文系だったためか終戦まで徴兵されていたが甲種幹部候補生隊の同期には技術系出身なのか卒業後に日本に帰り三菱重工業神戸造船所や東北振興アルミ(郡山)等に勤務していた同期もいた。戦争遂行のためには軍人も必要だが軍需産業の技術者がより必要なのであろう。

神戸造船所や東北振興アルミ工場(郡山)は米軍の空襲を受けている。必ず空襲される軍需工場勤務では対策は逃げるだけなのでそれはそれで大変だったであろう。

ボーキサイトからのアルミ精錬がなければ飛行機も飛ばないのでアルミ産業は必須の産業であったのだろう。戦争末期にはアルミ不足で木製の機体やプロペラが作られた。

また、戦時中から「東北振興」が考えられていたとはすごいと思った。戦時中から「東北振興」が考えられていたとはすごいと思った。1931(昭和 6 )年及び1934(昭和 9 )年の冷害凶作と1933(昭和 8 )年の昭和三陸津波を契機に国策として、東北 6 県の振興を図るために東北振興事業が展開された。東日本大震災の復興事業は2度目の東北振興なのであろうか。

東北振興アルミニューム:昭和13年にアルミニウム製造が開始された。終戦後、ジャパナイト工業と名称変更したが、昭和40年には閉鎖された。東北振興アルミは日満アルミニウム富山工場からアルミナの供給を受けた。

1933年に日満アルミニウム株式会社としてアルミニウムの製造を開始。日満アルミニウム株式会社は1943年に昭和電工株式会社に吸収合併され昭和電工株式会社富山工場となる。

軍隊 満州 陸軍 歩兵 

2014年7月18日金曜日

父の満州での軍隊生活(4)

父の思い出の最大のものはやはり奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練であろう。

高等専門学校や大学を卒業して就職してそれぞれの人生を描いていた若者が徴兵されて満州に派遣されてきた。

ここが会社でいえば新人教育、社会人教育の場であり、軍隊でのすべてのことを学んだ場所であろう。徴兵猶予になっていた学生は卒業するとすぐ徴兵された。

集合教育を受けている写真があるがまだみんな学生のような顔をしている。今でいえば大学4年生から修士課程(マスター)ぐらいの年齢であろう。

この予備士官学校で知識だけでなくその知識を使って完全武装で夜間行軍するのに耐える体力も付けていた。

小さな各グループに分かれてあるテーマについて議論、検討して解決策を出すような小グループ活動もやっていたようである。

また、座学や軍事訓練だけでなく、銃剣道、剣道、馬術などを楽しそうにやっている写真も残っている。戦争中とはいえ部活のノリのようであった。

そして、なんといっても一番楽しいことはやはり食事(飯)であろう。

同じ釜の飯を食う」

軍隊とは、武器を持っている、団体生活、階級があるの3条件をすべて満たす必要がある。武器だけ持っていても軍隊ではない。もちろん武器は大切だが、起居を共にする団体生活で同じ釜の飯を食うことが大切だろう。これが親しみと団結力が増してくる。しかし階級がないと同好会の合宿になってしまう。



 
日本軍も米英軍も、どの国の軍隊も「誰のために戦うのか」という問いに対する答えは同じであるらしい。

「誰のために戦うのか」に対する公的回答には祖国のため、家族のため、天皇陛下のため、女王陛下のため、大統領のためともっともらしい答えがたくさんある。

真の答えは「仲間(バディ)のため」であるそうだ。
バディ(buddy): 男性同士の友人・仲間・相棒




攻撃するとき後方部隊が援護射撃をしなかったら先に行く部隊はやってられないし、だれも加わらないだろう。死者・負傷者が増えて仲間が減り結局自分もやられる。危険だからと各人が責任放棄すると損害が増える。

退却するときもだれかが「しんがり」となり、最後尾で追っ手と戦いながら本隊を逃がす役目をやらないといけない。全員が一目散に逃げると全滅してしまう。これは戦国時代からやられている退却の基本であろう。


また、本隊が進むときに斥候となる優秀な兵士が必要となる。この任務も非常に危険であるが本隊が安全に目的を達することができるかこれによって決まる。
斥候:敵状などを偵察する少数の兵士

父たちを一から鍛えて一人前の将校にしてくれた人間的にも尊敬していた教官はこの斥候中に戦死した。父たち同期の追悼文集に驚きと悲しみ、そして感謝の気持ちを記載していた。追悼文集についてはまたの機会に紹介したい。

本書ヲ謹ミテ吾等ノ教官 故土屋大尉殿ノ霊前ニ捧ゲ冥福ヲ祈リ奉ル

判明セル当時ノ状況以下ノ如シ
「昭和18年5月12日、折柄ノ猛雨ヲ侵シXXX南方地区ノ地形偵察中遂ニ不帰ノ客トナラル」

教え子たちは戦争の現実と「仲間のために戦うこと」を知らされたのであろう。


われわれの時代や今の時代の日本は平和でありうれしいことだが「治安の夢」にふけらないことも大切で戦争にならないような備え、対策も必要であろう。
軍隊 満州 陸軍 歩兵

2014年7月2日水曜日

父の満州での軍隊生活 (3)

父が満州から持ち帰った写真は軍隊生活のためか99%が男性の写真である。その中に少しだけ子供や女性が写っていた写真があったので紹介する。

祖父は日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍した。その影響か父は語学が得意であったが満州へ派遣されてから支那語(中国語)を勉強し始めた。

満州の子供たちと楽しそうに遊んでいる写真が残っていた。今も昔も語学の先生にはやはり子供が一番であろう。分かるまで何回も言ってくれたり聞いてくれたり、間違っていたらすぐ直してくれるから。

子供たちも生きていれば80歳にはなっているだろう。無事を祈る。

 
支那(中国)服のようなものを着ている写真が残っているが兵隊さんも休日には私服で外出できたのであろうか。写真の場所は日本人が中国服を着て外出してもいいような安全な場所なのであろう。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
<満州の高足踊り(高脚踊り)>
縁日とかお祭りの日は高足踊りの余興が行われるらしい。数人の踊り手が支那芝居そっくりの隈取りや衣装やらで竹馬をつけて足取り面白く、お囃子にあわせて踊るそうだ。
 
 
  


2008年 春節 「頤和園蘇州街春節宮市」  高足踊り









 
 
 
 
 


 
 
 
 
 この写真は子供たちや女性たちとの集合写真である。たぶん場所は病院で男性は兵隊さん2名のみで全員日本人だと思われる。
 
 
 
 
 




着物にエプロンの女性、典型的な日本の婦人が兵隊さんにお茶の接待をしている写真もあった。
 
<支那と中国>
当時は「支那」という言葉は特に差別語として使われていたわけではなく、中国語辞典も「支那語辞典」であった。中華民国建国の父とされる孫文は1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立し、支那という用語を使用している。

もっと言えば、「支那」と「中国」は民族も領土範囲も違う。暴動や民族紛争が発生したチベットやモンゴル自治区は中国かもしれないが「支那(シナ)」という地域ではなかった。

満州 中華民国

 

 


2014年6月17日火曜日

父の満州での軍隊生活(2)

1939年(昭和14年5月から9月)にノモンハン事件が起きた。満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で大日本帝国陸軍とモンゴル軍・ソビエト軍とが戦闘して最大規模の軍事衝突となった。
 
ノモハン事件後ということもあって戦車と歩兵が連携した軍事訓練を満州では行っていたようで演習の写真がたくさん残されていた。

戦車は強そうだが実際には高速で走りながら砲撃はできないし射撃精度も良くない。九五式軽戦車の走行速度は最大で40km/hr程度である。

また戦車からは視界不良のため対戦車壕、落とし穴、ピアノ線などを発見して避けるのが難しい。これら障害物によって動きを止められてしまうと戦車といえども敵の餌食になってしまう。歩兵と連携した戦いのほうが歩兵が目や耳となり情報を収集して戦車の損害を少なくすることができるのであろう。

満州ではドイツ軍とソビエト軍とが行った戦車戦(クルスク戦車戦)などは想定しておらず、歩兵と戦車との共同作戦で対ソ戦に備えていたのだろう。もちろん満州には1000台もの日本の戦車はなかったはずである。

ノモンハン事件でも日本軍は多数の歩兵と少数の戦車で戦い、ソ連の機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。日本軍の戦死・戦傷・戦病の合計は18,979人でソ連軍の全死傷者数は9284人と公表されて信じられてきた。

ところがソ連崩壊後の情報公開により、ソ連軍の戦死・戦傷・戦病数は25,655名とされた(2001年のロシア共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』)

ソ連軍は日本軍よりも人的な損害、戦車・航空機の損害を出していたことが判明した。つまり、日本軍は負けてはいなかった。しかし、国境線は停戦ラインとほぼ同じに決まり多くの訓練された人材や装備(戦車等)を失ってしまった。

その後を託されて満州の甲種幹部候補生隊で教育を受けたのが父たち徴兵された若者なのであろう。

台湾などと違い、満州語(満語)や中国語が通常話されている満州において情報収集やスパイ対策など、また誰と戦うのか、中華民国、中国共産党、ソ連、戦う前からいろいろ困難な状況であったのであろう。

父が将校行李(こうり)まで持って無事に博多に帰ってこられたのも国民政府 蒋介石(しょうかいせき)のおかげであろう。この記事もその持ち帰った行李の中にあった多数の写真や書類に基づいている。

 
いろいろな思惑もあったのであろうが、蒋介石の指示によって中国大陸にいた軍民200万人の日本人が強制労働されることもなく何とか日本に帰ることができたのである。

父の満州での軍隊生活(1)

実家の荷物を整理していて父の満州時代の軍隊内部の写真がたくさん見つかった。
 
写真は小さな軽戦車(九五式軽戦車)であるが明らか中華民国軍や中国共産党ゲリラを相手にしているのではなく、満州国内における対ソ戦を想定しての訓練だと思われる。しかし米軍やソ連の戦車と比較してすごくかわいいと思った。
満州時代の話は聞いていたが写真は初めて見るものばかりであった。当時は軍事秘密であったのだろうが終戦後持ち帰ったものと思われる。

ほとんどが奉天甲種幹部候補生隊時代の楽しそうな学生生活だが戦車と歩兵の連携軍事演習などの本格的戦争を想定した写真もあった。当時の貴重な写真なので個人の遺品として埋もれてしまうのも残念なので時間があるときに少しずつ記事にしておきたい。

私の父は3月に高等専門学校を卒業して銀行に就職したが徴兵猶予がなくなっていたためその年の12月に徴兵されて翌年1月に現役兵として入隊(たった9ヶ月の銀行員)。4月に日本を出港して同月に朝鮮の羅津(ラジン)港に上陸。そこから鉄道で東満州へ入ったと思われる。

その12月には満州にあった奉天甲種幹部候補生隊へ入隊、その後各地を転戦して終戦まで軍隊にいた。一度も除隊されず職業軍人以外では最古参の下っ端将校であった(1日ぐらい形式上除隊されたかも?)。

父は祖父の影響なのか語学に興味があり、高等専門学校では英語が得意であった。祖父は語学系の専門学校を卒業して日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍していた。
 
父は満州へ派遣されてからは支那語(中国語)を一生懸命勉強したらしく満州から持ち帰った「支那語大辞典」が残っている。発音などの書き込みがたくさんあって軍隊でも勉強は大変なのだなあと感じた。
 
今の大学生よりもっと勉強と教育・訓練を受けていたのかもしれない。
 
戦争中は一般国民には英語などの教育を中止し使用しないようにしていた。しかし、英語、ドイツ語、フランス語などができる優秀な学生を集めてなんとか入手した欧米の科学論文等を読んで研究していたのも事実である。

20台前半であった若い父なども厳しい中国語の教育訓練を受けたのであろう。皮肉なことに、敗戦で日本が米軍(連合軍)に占領されてからは「英語」の教員になった。学歴と職歴(軍歴)からは考えて英語教員か陸上自衛隊(警察予備隊)しかなかったのかも知れない。

「支那語大辞典」の前書きにも書いてあったが、当時の旧制中学校などの語学教育は当たり前だが英語、ドイツ語などで支那語を課してある中学校は非常に少数であった。もちろん旧制高等学校や高等専門学校の語学教育も英語などの欧米語であった。

「一国の言語はその国民の文化の結晶である。言語に通ずることによってその国民を理解することができる」とも序に記載されていた。仲良くしたりけんかしたりするにも相手を知ることが大切であるということか。
「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」(孫子・謀攻編)

気になった写真は歩兵であるが乗馬の写真があることであった。騎兵隊でなくても歩兵でも連絡や斥候などのために乗馬して行動することはあるのであろうか。

それともスキー訓練などと同じく乗馬の訓練もやるだけであろうか。

まさか戦国時代ではないので日本陸軍に「乗馬歩兵」がいるとも思われない。歩兵といっても実際には汽車やトラックで移動しているのであまり気にすることではないのかもしれないが。

 
軍歴の地名としては「東安」、「密山」、「奉天」、「旅順」などが出てくる。
中国内政がもっと安定すれば密山と奉天(瀋陽)には一度は行ってみたい。
 
以下軍人履歴
(1年目)
1月 (歩兵二等兵) 現役兵として入隊
4月 日本を出港して朝鮮の羅津港経由で朝鮮国境を越えて満州派遣
5月 (歩兵一等兵) 歩兵科幹部候補生に採用
7月 (歩兵上等兵) 甲種幹部候補生を命ず
12月 奉天甲種幹部候補生隊へ入隊
(2年目)
2月 (歩兵軍曹)
6月 (歩兵曹長) 奉天甲種幹部候補生隊卒業 見習士官を命ず
11月 (陸軍少尉)
徴兵から4年目に中尉に昇進、終戦時(昭和20年8月)にポツダム大尉となる。昭和21年3月に博多に上陸し復員、召集解除。
 
密山市(みつさん-し)は中華人民共和国黒竜江省鶏西市に位置する市轄区で人口44万人だそうである。