2015年1月1日木曜日

昭和初期の家族写真 幼児・小学生・女生徒・女学生・学生

昭和初期の家族写真 幼児・小学生・女生徒・女学生・学生

暮れに実家の書棚を整理していると母の実家の家族写真が出てきた。撮影は昭和2年3月(1927年)で宮崎県の都城であると思われる。私の母方祖父夫婦と子供7名で赴任先の自宅(借家)の庭で撮影している。母は末っ子で当時3歳でそのあたりの田舎では珍しかった洋装である。母は祖母が40歳を過ぎてからの子供である。

昭和2年12月には日本最初の地下鉄(上野~浅草)が開通した。昭和2年の流行歌は北原白秋作詞の「ちゃっきり節」がある。昭和3年には藤原義江が歌った「出船」や「波浮の港」が流行した。

当時は女性は基本的に和服で男性は洋服のようである。また、この写真から当時の学生の服装がわかって面白い。

左から1番目の次男は小学生だと思われる。2番目の長男は旧制第七高等学校理科(鹿児島)の学生で学生服、右端は高等女学校の生徒であろう。

右から2番目と4番目の母の姉たちは下宿して官立の女子高等師範学校(女高師)へ行っていた。右から4番目の姉は着物に袴姿であることから在学中で女学生だと思われる。右から2番目の姉は袴を着けていないのでこの時にはすでに卒業して教員になっていたのかもしれない。

当時は子供が多く、高等教育を受けるためには都会へ出て行く必要がありずいぶん教育費がかかったであろうと思う。今と違ってずいぶん質素な生活をしていたようだ。

子供たちの中で秀才は長男と右から2番目の姉だったそうである。長男は旧制中学、その姉は高等女学校、それぞれ4年修了から飛び級で旧制高等学校と女子高等師範学校へ入学している(旧制中学、旧制高等女学校の就学年数は5年)。長男はその後、京都帝大の理学部へ進学し教員となった。

ずいぶん前に聞いた母の話によれば教員になった優秀な姉は戦後にずいぶん惨めな思いをしたそうである。

敗戦後、アメリカと同じように教員は大学卒でないと駄目だということになり、大卒でない教員は全員研修教育を受けたそうである。

戦前には官立の高等師範学校や女子高等師範学校を卒業した教員は国のお墨付きがあり、私立大学卒業の教員よりも高給であったそうだ。ところが戦後は「教員は大卒」ということになり研修を受けたり、給料が下がったりいいことはなかったそうだ。

おまけに自分では「飛び級で進学した秀才」だと思っていた姉は、「女学校を4年しか修めておらず学業年数が足りない」とまで言われたそうだ。長男は同じ飛び級で進学したが帝大卒の資格(学士)を持っているので当たり前だがおとがめなしであった。世の中が変われば評価も変わるのである。

現在も秀才で高校2年で中退して大学進学している特例もあるが大学卒業できなければ大卒でもないし高卒でもなくなり同じようなことが起きるだろう。

まあ、われわれのような普通レベルの人間には「飛び級」は関係ないことである。浪人して大学へ行く受験生たちからすると、どうやったら高校3年間の勉強を2年間で終了して希望の大学へ進学することができるのであろうと不思議であろう。

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