2014年7月18日金曜日

父の満州での軍隊生活(4)

父の思い出の最大のものはやはり奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練であろう。

高等専門学校や大学を卒業して就職してそれぞれの人生を描いていた若者が徴兵されて満州に派遣されてきた。

ここが会社でいえば新人教育、社会人教育の場であり、軍隊でのすべてのことを学んだ場所であろう。徴兵猶予になっていた学生は卒業するとすぐ徴兵された。

集合教育を受けている写真があるがまだみんな学生のような顔をしている。今でいえば大学4年生から修士課程(マスター)ぐらいの年齢であろう。

この予備士官学校で知識だけでなくその知識を使って完全武装で夜間行軍するのに耐える体力も付けていた。

小さな各グループに分かれてあるテーマについて議論、検討して解決策を出すような小グループ活動もやっていたようである。

また、座学や軍事訓練だけでなく、銃剣道、剣道、馬術などを楽しそうにやっている写真も残っている。戦争中とはいえ部活のノリのようであった。

そして、なんといっても一番楽しいことはやはり食事(飯)であろう。

同じ釜の飯を食う」

軍隊とは、武器を持っている、団体生活、階級があるの3条件をすべて満たす必要がある。武器だけ持っていても軍隊ではない。もちろん武器は大切だが、起居を共にする団体生活で同じ釜の飯を食うことが大切だろう。これが親しみと団結力が増してくる。しかし階級がないと同好会の合宿になってしまう。



 
日本軍も米英軍も、どの国の軍隊も「誰のために戦うのか」という問いに対する答えは同じであるらしい。

「誰のために戦うのか」に対する公的回答には祖国のため、家族のため、天皇陛下のため、女王陛下のため、大統領のためともっともらしい答えがたくさんある。

真の答えは「仲間(バディ)のため」であるそうだ。
バディ(buddy): 男性同士の友人・仲間・相棒




攻撃するとき後方部隊が援護射撃をしなかったら先に行く部隊はやってられないし、だれも加わらないだろう。死者・負傷者が増えて仲間が減り結局自分もやられる。危険だからと各人が責任放棄すると損害が増える。

退却するときもだれかが「しんがり」となり、最後尾で追っ手と戦いながら本隊を逃がす役目をやらないといけない。全員が一目散に逃げると全滅してしまう。これは戦国時代からやられている退却の基本であろう。


また、本隊が進むときに斥候となる優秀な兵士が必要となる。この任務も非常に危険であるが本隊が安全に目的を達することができるかこれによって決まる。
斥候:敵状などを偵察する少数の兵士

父たちを一から鍛えて一人前の将校にしてくれた人間的にも尊敬していた教官はこの斥候中に戦死した。父たち同期の追悼文集に驚きと悲しみ、そして感謝の気持ちを記載していた。追悼文集についてはまたの機会に紹介したい。

本書ヲ謹ミテ吾等ノ教官 故土屋大尉殿ノ霊前ニ捧ゲ冥福ヲ祈リ奉ル

判明セル当時ノ状況以下ノ如シ
「昭和18年5月12日、折柄ノ猛雨ヲ侵シXXX南方地区ノ地形偵察中遂ニ不帰ノ客トナラル」

教え子たちは戦争の現実と「仲間のために戦うこと」を知らされたのであろう。


われわれの時代や今の時代の日本は平和でありうれしいことだが「治安の夢」にふけらないことも大切で戦争にならないような備え、対策も必要であろう。
軍隊 満州 陸軍 歩兵

2014年7月2日水曜日

父の満州での軍隊生活 (3)

父が満州から持ち帰った写真は軍隊生活のためか99%が男性の写真である。その中に少しだけ子供や女性が写っていた写真があったので紹介する。

祖父は日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍した。その影響か父は語学が得意であったが満州へ派遣されてから支那語(中国語)を勉強し始めた。

満州の子供たちと楽しそうに遊んでいる写真が残っていた。今も昔も語学の先生にはやはり子供が一番であろう。分かるまで何回も言ってくれたり聞いてくれたり、間違っていたらすぐ直してくれるから。

子供たちも生きていれば80歳にはなっているだろう。無事を祈る。

 
支那(中国)服のようなものを着ている写真が残っているが兵隊さんも休日には私服で外出できたのであろうか。写真の場所は日本人が中国服を着て外出してもいいような安全な場所なのであろう。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
<満州の高足踊り(高脚踊り)>
縁日とかお祭りの日は高足踊りの余興が行われるらしい。数人の踊り手が支那芝居そっくりの隈取りや衣装やらで竹馬をつけて足取り面白く、お囃子にあわせて踊るそうだ。
 
 
  


2008年 春節 「頤和園蘇州街春節宮市」  高足踊り









 
 
 
 
 


 
 
 
 
 この写真は子供たちや女性たちとの集合写真である。たぶん場所は病院で男性は兵隊さん2名のみで全員日本人だと思われる。
 
 
 
 
 




着物にエプロンの女性、典型的な日本の婦人が兵隊さんにお茶の接待をしている写真もあった。
 
<支那と中国>
当時は「支那」という言葉は特に差別語として使われていたわけではなく、中国語辞典も「支那語辞典」であった。中華民国建国の父とされる孫文は1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立し、支那という用語を使用している。

もっと言えば、「支那」と「中国」は民族も領土範囲も違う。暴動や民族紛争が発生したチベットやモンゴル自治区は中国かもしれないが「支那(シナ)」という地域ではなかった。

満州 中華民国