父が満州から持ち帰った写真は軍隊生活のためか99%が男性の写真である。その中に少しだけ子供や女性が写っていた写真があったので紹介する。
祖父は日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍した。その影響か父は語学が得意であったが満州へ派遣されてから支那語(中国語)を勉強し始めた。
満州の子供たちと楽しそうに遊んでいる写真が残っていた。今も昔も語学の先生にはやはり子供が一番であろう。分かるまで何回も言ってくれたり聞いてくれたり、間違っていたらすぐ直してくれるから。
子供たちも生きていれば80歳にはなっているだろう。無事を祈る。
支那(中国)服のようなものを着ている写真が残っているが兵隊さんも休日には私服で外出できたのであろうか。写真の場所は日本人が中国服を着て外出してもいいような安全な場所なのであろう。
<満州の高足踊り(高脚踊り)>
縁日とかお祭りの日は高足踊りの余興が行われるらしい。数人の踊り手が支那芝居そっくりの隈取りや衣装やらで竹馬をつけて足取り面白く、お囃子にあわせて踊るそうだ。
2008年 春節 「頤和園蘇州街春節宮市」
高足踊り
この写真は子供たちや女性たちとの集合写真である。たぶん場所は病院で男性は兵隊さん2名のみで全員日本人だと思われる。
着物にエプロンの女性、典型的な日本の婦人が兵隊さんにお茶の接待をしている写真もあった。
<支那と中国>
当時は「支那」という言葉は特に差別語として使われていたわけではなく、中国語辞典も「支那語辞典」であった。中華民国建国の父とされる孫文は1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立し、支那という用語を使用している。
もっと言えば、「支那」と「中国」は民族も領土範囲も違う。暴動や民族紛争が発生したチベットやモンゴル自治区は中国かもしれないが「支那(シナ)」という地域ではなかった。
満州 中華民国
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