実家の荷物を整理していて父の満州時代の軍隊内部の写真がたくさん見つかった。
写真は小さな軽戦車(九五式軽戦車)であるが明らか中華民国軍や中国共産党ゲリラを相手にしているのではなく、満州国内における対ソ戦を想定しての訓練だと思われる。しかし米軍やソ連の戦車と比較してすごくかわいいと思った。
満州時代の話は聞いていたが写真は初めて見るものばかりであった。当時は軍事秘密であったのだろうが終戦後持ち帰ったものと思われる。
ほとんどが奉天甲種幹部候補生隊時代の楽しそうな学生生活だが戦車と歩兵の連携軍事演習などの本格的戦争を想定した写真もあった。当時の貴重な写真なので個人の遺品として埋もれてしまうのも残念なので時間があるときに少しずつ記事にしておきたい。
私の父は3月に高等専門学校を卒業して銀行に就職したが徴兵猶予がなくなっていたためその年の12月に徴兵されて翌年1月に現役兵として入隊(たった9ヶ月の銀行員)。4月に日本を出港して同月に朝鮮の羅津(ラジン)港に上陸。そこから鉄道で東満州へ入ったと思われる。
その12月には満州にあった奉天甲種幹部候補生隊へ入隊、その後各地を転戦して終戦まで軍隊にいた。一度も除隊されず職業軍人以外では最古参の下っ端将校であった(1日ぐらい形式上除隊されたかも?)。
父は祖父の影響なのか語学に興味があり、高等専門学校では英語が得意であった。祖父は語学系の専門学校を卒業して日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍していた。
今の大学生よりもっと勉強と教育・訓練を受けていたのかもしれない。
戦争中は一般国民には英語などの教育を中止し使用しないようにしていた。しかし、英語、ドイツ語、フランス語などができる優秀な学生を集めてなんとか入手した欧米の科学論文等を読んで研究していたのも事実である。
20台前半であった若い父なども厳しい中国語の教育訓練を受けたのであろう。皮肉なことに、敗戦で日本が米軍(連合軍)に占領されてからは「英語」の教員になった。学歴と職歴(軍歴)からは考えて英語教員か陸上自衛隊(警察予備隊)しかなかったのかも知れない。
「支那語大辞典」の前書きにも書いてあったが、当時の旧制中学校などの語学教育は当たり前だが英語、ドイツ語などで支那語を課してある中学校は非常に少数であった。もちろん旧制高等学校や高等専門学校の語学教育も英語などの欧米語であった。
「一国の言語はその国民の文化の結晶である。言語に通ずることによってその国民を理解することができる」とも序に記載されていた。仲良くしたりけんかしたりするにも相手を知ることが大切であるということか。
「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」(孫子・謀攻編)
気になった写真は歩兵であるが乗馬の写真があることであった。騎兵隊でなくても歩兵でも連絡や斥候などのために乗馬して行動することはあるのであろうか。
それともスキー訓練などと同じく乗馬の訓練もやるだけであろうか。
まさか戦国時代ではないので日本陸軍に「乗馬歩兵」がいるとも思われない。歩兵といっても実際には汽車やトラックで移動しているのであまり気にすることではないのかもしれないが。
軍歴の地名としては「東安」、「密山」、「奉天」、「旅順」などが出てくる。
中国内政がもっと安定すれば密山と奉天(瀋陽)には一度は行ってみたい。
以下軍人履歴
(1年目)
1月 (歩兵二等兵) 現役兵として入隊
4月 日本を出港して朝鮮の羅津港経由で朝鮮国境を越えて満州派遣
5月 (歩兵一等兵) 歩兵科幹部候補生に採用
7月 (歩兵上等兵) 甲種幹部候補生を命ず
12月 奉天甲種幹部候補生隊へ入隊
(2年目)
2月 (歩兵軍曹)
6月 (歩兵曹長) 奉天甲種幹部候補生隊卒業 見習士官を命ず
11月 (陸軍少尉)
徴兵から4年目に中尉に昇進、終戦時(昭和20年8月)にポツダム大尉となる。昭和21年3月に博多に上陸し復員、召集解除。
密山市(みつさん-し)は中華人民共和国黒竜江省鶏西市に位置する市轄区で人口44万人だそうである。
0 件のコメント:
コメントを投稿