(産経 2015年8月13日記事)
終戦後は焼け残ったデパートがダンスホールになったようだ。東京では銀座松坂屋地下がダンスホールに、大阪ではミナミの高島屋大食堂跡がダンスホールになりダンサーが約100名いた。
大勢の人でにぎわうダンスホール=昭和22年、高島屋大阪店
ダンスホールで楽しそうに踊る人々=昭和22年、高島屋大阪店
戦後間もない昭和22年、大阪・ミナミの高島屋大阪店に「復興のシンボル」となったダンスホールがあったことをご存じだろうか。百貨店が手がける安心感と健全さが人気を呼び、連日、生バンドに合わせてダンスを楽しむ男女でにぎわったという。
同店担当者は「復興に向けて盛り上げたいという大阪らしい発想と実行力を感じる」と話している。(上岡由美)
戦前、ミナミではダンスホールが活況だったが、第二次世界大戦が始まると相次ぎ閉鎖。空襲で周辺一帯も焼け野原になった。終戦後、暗い雰囲気を払拭しようと、ダンスホールを復活させる機運が高まる。
高島屋も被害を受けたが、当時の営業部長の発案で大食堂跡をダンスホールに改造。会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として終戦丸2年となる22年8月15日に営業を始めた。
高島屋史料館の川上和男課長(44)は「ダンス助教師を養成するのに、男性従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けたそうです」と話す。
23年10月には一般公開され、バンドマン約20人、ダンサー約100人を配置。もともと1300席が入った大食堂の跡地に造られたダンスフロアだけに、天井が高く広々としていたが、連日200人以上の人々が詰めかけるなど、床が見えないほどの大盛況だった。ハワイアン、タンゴ、ジャズなどの音楽に合わせてダンスを楽しんでいたが、25年9月、店舗の改装工事のため、3年で幕を閉じた。
当時の社内報には「勤務を終え、われらダンスマニアにとつてはもつとも楽しかるべき夕暮のひととき、あのしびれるようなスイートメロデイーにのつて疲労を忘れ、空腹さえも忘れて…」という社員の投稿が掲載されている。
川上課長は「当時も今も元気の発信は大阪。暗い世相を払拭しようと設けられたダンスホールがあったことを知ってもらえれば」と話している。
1947(昭和22)年 ダンスホール開業
戦災を受けた大阪店高架下大食堂街跡をダンスホールに改造し、1950年までの3年間営業を続けました。戦災を被ったままになっていた大阪店の大食堂跡地に、昭和21年9月、同街のサロン食堂跡に喫茶を主とする食堂を復活しました。しかし、食糧統制強化により材料不足で数ヶ月で閉鎖。その後、流行のダンスホール経営を試みることとなりました。
当初会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として22年8月15日にオープン。大きなスピーカーでレコード音楽を流し、高島屋養成の40名のダンス助教師を配して営業しました。男子従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けました。
昭和23年10月、ダンスホールとして営業許可下がり、チケット制で一般公開しました。
バンドマン約20名、ダンサー約100名と専属契約を結び、連日音楽に合わせてダンスを楽しむ人々で大盛況でした。京マチ子主演映画「地下街の弾痕」のロケで使用されるなど、話題のスポットでもありました。
昭和25年9月、駅ホームの改装工事のため惜しまれながら幕を閉じました。
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