思ひでのダンスホール 戦前編
ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号に戦前のダンスホールを懐かしがる記事が掲載されていた。懐かしさと現状のダンスホールを嘆いていて「昔は良かったなあ」と感じているのがいつの時代も同じだと平成時代から見ても面白い。
ルディ・ヴァリー(Rudy Vallee) が1930年に歌ったスタインソング(Stein Song)などが流行していたらしい。
<記事要約>
夢よ、もう一度!! One Dance 5 Sen時代! One Yenで二人でラストまで頑張れた!
昭和15年、蛍の光の曲で一生の踊り納めと思ったダンスが終戦のおかげで再び復活した。
東京でもオアシスオブギンザ、サンタフェ、メリーゴールドなどのホールがオープンした。それから数年、ダンスが大衆化されて行くにつれて、田舎には野良ダンス、会社工場には職場ダンスが流行してだれもかれもダンスに熱中してきた。
しかし、昔のダンスエチケットが全く失われてしまった。ダンスホールからキャバレーに移り変わり、踊りが半分、酒、タバコ、それに金に物をいわす時代になった。これでは西部劇の社交場(酒場)になっていしまいそうだ。愚痴を言ってもきりがないので戦前の各ホールを紹介してみよう。
当時、東京の8大ホールといえば、まずフロリダを筆頭に新橋、銀座、日米、國華、ユニオン、和泉橋、帝都などをあげ、郊外には浦和、川口、川崎、東横、花月園等があった。
フロリダ(赤坂溜池)
夜はさびしいあの溜池に思わぬジャズの音が響くホール。ホールの設備もバンドも客種も他のホールでは味わえぬ雰囲気だった。諸外国の外交官なぞも多く来ていたようだった。ダンサーは背の高い外人向けのスマートなのがそろっていた。
新橋(芝口交差点、太田屋ビル階上)
あまり広くはないが見物席とバンドが2階にあり、ホール向きに設計しており申し分なかった。ここではよく不良の縄張り争いがあって血なまぐさい騒ぎを起こしたのがキズだった。
銀座(京橋交差点角、星製薬ビル6階)
大衆向きホール。テケツ(チケット)もランチタイムが5銭、ヒル券10銭、夜券20銭。ここのファンは銀ブラ連中と、カフェーの女給さんが昼間よく遊びに来ていた。
帝都(新宿帝都座5階)
一番遅くできたので場内の設備も良かったが入口が裏の細い楽屋裏からエレベータで上がる感じが悪かった。お客は会社員が多かった。
日米(八重洲口)
他のホールに比べてすこし小さいけれど、場所柄重役級の上品な客が多かった。年配の紳士がそろっているのでいっそう落ち着きを見せていた。バンドはフィリピン人をよく使っていた。
國華(京橋八丁堀)
ここも大衆向けホールでランチタイム5銭、ヒルは10銭、夜券16銭であった。ヒルは付近の株屋さん連中のお客で占めていた。
ユニオン(人形町松竹映画劇場4階、日鮮館ビル)
株式取引所と問屋街が近くにあるので、番頭さん風の粋な人や芸者さんや半玉やお座敷帰りの客が見物によく来ていた。和服で踊っている客の数はこのホールが一番多かった。日本物の曲がバンドにより多く演奏されたのも特色。
一流のプレイヤーを上海から特に呼んで業界に大きなシゲキを与えていたのが今でも印象に残っている。
和泉橋(神田岩本町交差点)
場所柄学生が多く、時節柄制服がやかましいので上着だけ背広に着替えて踊りに来ていた学生ファンで相当にぎわった。当時「制服お断り」、「ネクタイなしお断り」、エチケットをやかましく言ったのでホールの近所で洋服を貸す店さえできたほどだ。全くウソのような事実である。
1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景。
【松竹では春の新作「非常線の女」を撮影中だがその一シーンに登場すべき眉目型美はしのダンサー五六名を是非懇望したいと赤坂のフロリダに申入れたので二十四日午前十一時同ホールで大掛りなテストをやつた、松竹側からは大谷社長、城戸所長、田中絹代ナンテ幹部所から下回りまで總出動、フロリダでも百六十名の美姫中から選り抜きの綺麗ところを集めて津田支配人初め大童だ。
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ダンスホール 昭和5年
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