2014年6月17日火曜日

父の満州での軍隊生活(2)

1939年(昭和14年5月から9月)にノモンハン事件が起きた。満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で大日本帝国陸軍とモンゴル軍・ソビエト軍とが戦闘して最大規模の軍事衝突となった。
 
ノモハン事件後ということもあって戦車と歩兵が連携した軍事訓練を満州では行っていたようで演習の写真がたくさん残されていた。

戦車は強そうだが実際には高速で走りながら砲撃はできないし射撃精度も良くない。九五式軽戦車の走行速度は最大で40km/hr程度である。

また戦車からは視界不良のため対戦車壕、落とし穴、ピアノ線などを発見して避けるのが難しい。これら障害物によって動きを止められてしまうと戦車といえども敵の餌食になってしまう。歩兵と連携した戦いのほうが歩兵が目や耳となり情報を収集して戦車の損害を少なくすることができるのであろう。

満州ではドイツ軍とソビエト軍とが行った戦車戦(クルスク戦車戦)などは想定しておらず、歩兵と戦車との共同作戦で対ソ戦に備えていたのだろう。もちろん満州には1000台もの日本の戦車はなかったはずである。

ノモンハン事件でも日本軍は多数の歩兵と少数の戦車で戦い、ソ連の機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。日本軍の戦死・戦傷・戦病の合計は18,979人でソ連軍の全死傷者数は9284人と公表されて信じられてきた。

ところがソ連崩壊後の情報公開により、ソ連軍の戦死・戦傷・戦病数は25,655名とされた(2001年のロシア共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』)

ソ連軍は日本軍よりも人的な損害、戦車・航空機の損害を出していたことが判明した。つまり、日本軍は負けてはいなかった。しかし、国境線は停戦ラインとほぼ同じに決まり多くの訓練された人材や装備(戦車等)を失ってしまった。

その後を託されて満州の甲種幹部候補生隊で教育を受けたのが父たち徴兵された若者なのであろう。

台湾などと違い、満州語(満語)や中国語が通常話されている満州において情報収集やスパイ対策など、また誰と戦うのか、中華民国、中国共産党、ソ連、戦う前からいろいろ困難な状況であったのであろう。

父が将校行李(こうり)まで持って無事に博多に帰ってこられたのも国民政府 蒋介石(しょうかいせき)のおかげであろう。この記事もその持ち帰った行李の中にあった多数の写真や書類に基づいている。

 
いろいろな思惑もあったのであろうが、蒋介石の指示によって中国大陸にいた軍民200万人の日本人が強制労働されることもなく何とか日本に帰ることができたのである。

父の満州での軍隊生活(1)

実家の荷物を整理していて父の満州時代の軍隊内部の写真がたくさん見つかった。
 
写真は小さな軽戦車(九五式軽戦車)であるが明らか中華民国軍や中国共産党ゲリラを相手にしているのではなく、満州国内における対ソ戦を想定しての訓練だと思われる。しかし米軍やソ連の戦車と比較してすごくかわいいと思った。
満州時代の話は聞いていたが写真は初めて見るものばかりであった。当時は軍事秘密であったのだろうが終戦後持ち帰ったものと思われる。

ほとんどが奉天甲種幹部候補生隊時代の楽しそうな学生生活だが戦車と歩兵の連携軍事演習などの本格的戦争を想定した写真もあった。当時の貴重な写真なので個人の遺品として埋もれてしまうのも残念なので時間があるときに少しずつ記事にしておきたい。

私の父は3月に高等専門学校を卒業して銀行に就職したが徴兵猶予がなくなっていたためその年の12月に徴兵されて翌年1月に現役兵として入隊(たった9ヶ月の銀行員)。4月に日本を出港して同月に朝鮮の羅津(ラジン)港に上陸。そこから鉄道で東満州へ入ったと思われる。

その12月には満州にあった奉天甲種幹部候補生隊へ入隊、その後各地を転戦して終戦まで軍隊にいた。一度も除隊されず職業軍人以外では最古参の下っ端将校であった(1日ぐらい形式上除隊されたかも?)。

父は祖父の影響なのか語学に興味があり、高等専門学校では英語が得意であった。祖父は語学系の専門学校を卒業して日露戦争と第一次世界大戦に通訳として従軍していた。
 
父は満州へ派遣されてからは支那語(中国語)を一生懸命勉強したらしく満州から持ち帰った「支那語大辞典」が残っている。発音などの書き込みがたくさんあって軍隊でも勉強は大変なのだなあと感じた。
 
今の大学生よりもっと勉強と教育・訓練を受けていたのかもしれない。
 
戦争中は一般国民には英語などの教育を中止し使用しないようにしていた。しかし、英語、ドイツ語、フランス語などができる優秀な学生を集めてなんとか入手した欧米の科学論文等を読んで研究していたのも事実である。

20台前半であった若い父なども厳しい中国語の教育訓練を受けたのであろう。皮肉なことに、敗戦で日本が米軍(連合軍)に占領されてからは「英語」の教員になった。学歴と職歴(軍歴)からは考えて英語教員か陸上自衛隊(警察予備隊)しかなかったのかも知れない。

「支那語大辞典」の前書きにも書いてあったが、当時の旧制中学校などの語学教育は当たり前だが英語、ドイツ語などで支那語を課してある中学校は非常に少数であった。もちろん旧制高等学校や高等専門学校の語学教育も英語などの欧米語であった。

「一国の言語はその国民の文化の結晶である。言語に通ずることによってその国民を理解することができる」とも序に記載されていた。仲良くしたりけんかしたりするにも相手を知ることが大切であるということか。
「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」(孫子・謀攻編)

気になった写真は歩兵であるが乗馬の写真があることであった。騎兵隊でなくても歩兵でも連絡や斥候などのために乗馬して行動することはあるのであろうか。

それともスキー訓練などと同じく乗馬の訓練もやるだけであろうか。

まさか戦国時代ではないので日本陸軍に「乗馬歩兵」がいるとも思われない。歩兵といっても実際には汽車やトラックで移動しているのであまり気にすることではないのかもしれないが。

 
軍歴の地名としては「東安」、「密山」、「奉天」、「旅順」などが出てくる。
中国内政がもっと安定すれば密山と奉天(瀋陽)には一度は行ってみたい。
 
以下軍人履歴
(1年目)
1月 (歩兵二等兵) 現役兵として入隊
4月 日本を出港して朝鮮の羅津港経由で朝鮮国境を越えて満州派遣
5月 (歩兵一等兵) 歩兵科幹部候補生に採用
7月 (歩兵上等兵) 甲種幹部候補生を命ず
12月 奉天甲種幹部候補生隊へ入隊
(2年目)
2月 (歩兵軍曹)
6月 (歩兵曹長) 奉天甲種幹部候補生隊卒業 見習士官を命ず
11月 (陸軍少尉)
徴兵から4年目に中尉に昇進、終戦時(昭和20年8月)にポツダム大尉となる。昭和21年3月に博多に上陸し復員、召集解除。
 
密山市(みつさん-し)は中華人民共和国黒竜江省鶏西市に位置する市轄区で人口44万人だそうである。