1939年(昭和14年5月から9月)にノモンハン事件が起きた。満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で大日本帝国陸軍とモンゴル軍・ソビエト軍とが戦闘して最大規模の軍事衝突となった。
ノモハン事件後ということもあって戦車と歩兵が連携した軍事訓練を満州では行っていたようで演習の写真がたくさん残されていた。
戦車は強そうだが実際には高速で走りながら砲撃はできないし射撃精度も良くない。九五式軽戦車の走行速度は最大で40km/hr程度である。
また戦車からは視界不良のため対戦車壕、落とし穴、ピアノ線などを発見して避けるのが難しい。これら障害物によって動きを止められてしまうと戦車といえども敵の餌食になってしまう。歩兵と連携した戦いのほうが歩兵が目や耳となり情報を収集して戦車の損害を少なくすることができるのであろう。
満州ではドイツ軍とソビエト軍とが行った戦車戦(クルスク戦車戦)などは想定しておらず、歩兵と戦車との共同作戦で対ソ戦に備えていたのだろう。もちろん満州には1000台もの日本の戦車はなかったはずである。
ノモンハン事件でも日本軍は多数の歩兵と少数の戦車で戦い、ソ連の機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。日本軍の戦死・戦傷・戦病の合計は18,979人でソ連軍の全死傷者数は9284人と公表されて信じられてきた。
ところがソ連崩壊後の情報公開により、ソ連軍の戦死・戦傷・戦病数は25,655名とされた(2001年のロシア共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』)
ソ連軍は日本軍よりも人的な損害、戦車・航空機の損害を出していたことが判明した。つまり、日本軍は負けてはいなかった。しかし、国境線は停戦ラインとほぼ同じに決まり多くの訓練された人材や装備(戦車等)を失ってしまった。
その後を託されて満州の甲種幹部候補生隊で教育を受けたのが父たち徴兵された若者なのであろう。
台湾などと違い、満州語(満語)や中国語が通常話されている満州において情報収集やスパイ対策など、また誰と戦うのか、中華民国、中国共産党、ソ連、戦う前からいろいろ困難な状況であったのであろう。
父が将校行李(こうり)まで持って無事に博多に帰ってこられたのも国民政府 蒋介石(しょうかいせき)のおかげであろう。この記事もその持ち帰った行李の中にあった多数の写真や書類に基づいている。
いろいろな思惑もあったのであろうが、蒋介石の指示によって中国大陸にいた軍民200万人の日本人が強制労働されることもなく何とか日本に帰ることができたのである。