供館 (Library) | 香川県立図書館 (2110006) | 管理番号 (Control number) | 8780 | ||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2008年08月15日 | 登録日時 (Registration date) | 2008年08月15日 10時16分 | 更新日時 (Last update) | 2017年05月25日 09時05分 | ||||
質問 (Question) |
太平洋戦争末期に建設された屋島飛行場について記述のある資料を知りたい。
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回答 (Answer) |
1 「高松百年史 上」(高松百年史編集室/編 高松市 1988年発行)
681頁に次の記述がある。 「高松市では高松町百石町辺りに屋島飛行場を・・・」 2 「道路グラフィティ-観光道路はこうして作られた-土木技術の変遷」 (国土交通省四国地方整備局香川工事事務所/〔編〕 国土交通省四国地方整備局香川工事事務所 2001年発行) 45頁に次の記述がある。 「戦争末期にこの当たりの道路を広げて、緊急用の飛行場にしたと記録が残っている。」 3 「牟礼町史」(牟礼町史編集委員会/編 牟礼町 1993年発行) 564頁に次の記述ある。 「大正九年(1920)四月の道路法の施行によって、この道路が国道二二号となった。その後観光道路の名称で 旧一一号線が中新町から屋島の馬場先を経て白羽神社馬場先近くまで新設された(太平洋戦争末期には、 高松町から春日町にかけては飛行場の滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。 4 「高松空襲戦災誌」(高松空襲戦災誌編集室/編 高松市役所 1983年発行) 68頁に次のような記述ある。 ・屋島飛行場は、飛行機を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。 ・参道を出た付近の観光道路を約千メートルにわたって拡張して、戦闘機が離着陸できるようにした。 ・本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで 運ぶことなく、直ちにここから発進できるようにしたと思われる。 ・作業は、昭和20年春ごろから開始された。 ・米軍の高松爆撃計画には、指定番号2602標的としてキライ・エアフィールド(キライは帰来で付近の地名)と 明示されていた。 ・使用しないまま終戦となった。 5 「昭和20年空襲前米軍撮影空中写真 41 3PR5M246 1V 5-28 F-153 1 35000 高松市林町付近 -昭和20年5月28日撮影」(日本地図センター 2007年発行) この資料により、1~4の資料に記述のある場所をほぼ確認できる。 | ||||||||
回答プロセス (Answering process) | |||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) | |||||||||
キーワード (Keywords) |
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屋島東町の被災は屋島山頂にある獅子霊巌の部分である。またこの地区の空襲は国道21号(通称・観光道路、現・香川県道155号牟礼中新線)の高松町字帰来付近にあった屋島飛行場を狙ったと思われるもので、現に高松空襲を行った第58航空団の攻撃目標には陸軍林飛行場(Takamatu)と陸軍屋島飛行場(Kirai Airfield)も含まれていた。ただ、これらの施設の損害について後にまとめられた米軍の報告書「第21爆撃隊本部作戦任務報告書」でも目視による損害なし(Non visible)とされており、実際にも被災は無かった。
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古高松村役場:香川県木田郡古高松村大字古高松字帰来91番地の2
1940年(昭和15年)2月11日には周辺自治体とともに高松市と合併し自治体としての古高松村は消滅した。合併に伴い設定された町名は、区域・名称共に合併前の大字、すなわち1890年(明治23年)の町村制施行前における村の区域をそのまま継承した。
1940年(昭和15年)2月11日には周辺自治体とともに高松市と合併し自治体としての古高松村は消滅した。合併に伴い設定された町名は、区域・名称共に合併前の大字、すなわち1890年(明治23年)の町村制施行前における村の区域をそのまま継承した。
香川県に三つの陸軍秘匿飛行場がつくられていた。
屋島飛行場、国分飛行場、丸亀飛行場
陸軍が最初に建設に着手したのは屋島飛行場(帰来(きらい)飛行場)
アメリカ軍とGHQがつくったものがありました。
前述したアメリカ軍が、1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」に、この飛行場が写っています。
陸軍高松飛行場が写っていますが、そこから右上の所に屋島が写っています。
その下に横に道路が走っています。観光道路です。
その写真をトリミングして拡大しました。(写真1)
観光道路(いまは、県道牟礼中新線)が屋島の登山口付近で拡幅されています。 観光道路の一部が拡幅されて陸軍の飛行場になっていたと思われます。
当時の地図を示します。
大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です。(地図1)
この2つの地図をつないだものにに、写真にある膨らんだ部分を2赤色で落としました。(地図2)
同じように写真の膨らんだ所を現在の地図に水色で落としました。(地図3)
その1つの資料は、前出の『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』です。
アメリカ軍は、この飛行場をキライ(帰来)飛行場と呼んでいました。
「k.キライ-北緯34度20分、東経134度1分:
分類: MLG
場所: 高松から東へ3マイルの1号線の最近改修された箇所の広げられた部分にある。
飛行場は、建設中で、西南西の端へ向かって2850フィートの未舗装路であり、水はけが良い。[約868.68メートル]
滑走路:東北東から西南西へ4825フィート×100フィート。西南西へ1200フィート拡張可能。建物や分散地域はない。
地形上の障害物:1マイル北に標高960フィートの丘、2マイル南東に標高945フィートの丘。」
MLGは、「中型爆撃機着陸場」のことです。
高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
「屋島飛行場は、飛行場を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。また、参道を出た付近の観光道路を約千㍍にわたって拡張し、戦闘機が離着陸できるようにした。
これは本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで運ぶことなく、直ちにここから発進できるようにしたものと思われる。」
屋島飛行場は、溶岩台地である屋島の南側を横切る国道22号(観光道路)。屋島飛行場は、この道路を利用してつくられていました(いまは、県道155号です)。この道路の左右には建物もありましたが、ほとんどが田んぼでした。
屋島の南側の両サイドは塩田でした。屋島南部の屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る国道22号(観光道路)につながっていました。
陸軍屋島飛行場づくりは、いつからはじまったのでしょうか。
高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)は、「これらの作業は、昭和二十年[一九四五年]春ごろから開始され、林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が、付近の住民と共に作業に従事した。」と書いています。
高松第一中学校(高松市)の『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』(●)を読むと、少なくとも5月20日には工事が始まっていたことがわかります。
同学校の生徒たちは、陸軍屋島飛行場づくりに動員されていました。
アメリカ軍機の空襲の警戒警報、の空襲警報がしばしば出ているなかでの作業でした。
○ 五月十五日 火曜日 風後雲
「午後六時ヨリ於高中校[高松中学校]林動員打合会ヘ学校長出席」
○ 五月十六日 水曜日 晴
「午後二時三十分ヨリ職員会 林村動員ニ関スル件外……」
○ 五月十八日 金曜日 晴
「三ノ一、二ノ一、二、本日より五日間軍事施設協力動員出勤」
○ 五月十九日 土曜日 雨
「雨天ノ為軍事施設協力出動の中止 普通授業(三ノ一、二、ノ一、二)」
○ 五月二十日 日曜日 雲 小雨
「三ノ一、二ノ一、二 年 屋島へ出勤」
○ 五月二十一日 月曜日 雨
「三ノ二、二ノ一、二、屋島出動」
○ 五月二十四日 木曜日 晴
「二ノ三、四、五、明二五日ヨリ屋島ヘ出勤ニ付キ休暇を貰フ」
○ 五月二十五日 金曜日 晴
「二ノ三、四、五 屋島作業」
○ 五月二十六日 土曜日 晴
「二ノ三、四、五 屋島ニ出動」
○ 五月二十七日 日曜日 晴
「第五日曜ニテ休業」
「屋島出動 二年三、四、五」
○ 五月二十八日 月曜日 晴
「屋島出動 二年一、二、三
二年四、五ハ代休」
○ 五月二十九日 火曜日 晴
「屋島出動 二年一、二、四
二年三 代休」
○ 五月三十日 水曜日 晴
「屋島出動二年一、二、五」
○ 五月三十一日 木曜日 晴
「二年一、二、五 屋島出動 正午ニテ切上ゲ
后一時一〇分ヨリ東宝ニテ映画観賞」
[東宝で上映していたのは軍神ものの「後に続くを信ず」(一九四五年三月八日)でした。]
このようにしてつくられました
陸軍屋島は、このようにしてつくられました。
牟礼町史編集委員会(1993年):『牟礼町史』(牟礼町。●頁。●頁-●頁)に、つぎのように書かれています。
「本町を縦断する国道一一号の元になった道路は、江戸初期に設けられた浜街道(志度街道)である。そのころの幅員[ふくいん。道路・橋・船などの、はば]は約三・八㍍ぐらいで、高松市高松町東端から小松歯科医院(王墓)の前を通り、柴野製菓の前を右折神櫛王墓前を牟礼川に沿って西林寺前へ出、赤坂を経て皿池の堤防を通り堀越へ、西門寺跡といわれる所で直角に左折し牟礼小学校横を通った。川東の農協大町出張所前から元結峠の一里松を右に見て、幡羅八幡神社前を直進海岸近くに出て、宮前・原浜の家並みの間を志度町に入っていた。
大正九年(一九二〇)四月の道路法の施行によって、この道路が国道二二号となった。その後観光道路の名称で旧一一号線が中新町から屋島の馬場先を経て白羽神社馬場先近くまで新設された(太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行機の滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。」
高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
「工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と平行して深い溝を掘って、その土を道路との間に盛りあげ、同じ高さにして固めていった。
基礎には、牟礼や庵治から手ごろな大きな砕石を運んできて敷石した。」(高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)
高松市の高松中学校の3年生だった水原良昌さんも陸軍屋島飛行場づくりにどういんされます。一緒に動員されたのは3年生全5クラスでした。5中旬から1カ月少々でした。
「屋島は、東照宮の馬場先附近の約一キロにわたる旧十一号線沿いであった。道路下の田んぼで掘った土をモッコで担いで運ぶ作業が中心であったが、幾日間かは庵治の丸山峠まで歩いて石の採集に往復する事もあった。太い竹竿でモッコ担ぎを連日続けていると両肩が青く赤く腫れあがって痛んだ。そのうちに血膿が出て来たらどうしょうかと真剣に心配した程であるが顔をしかめながら頑張った。」。「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)
屋島風土記編纂委員会():『屋島風土記』(屋島文化協会。美巧堂。●頁。●頁-●頁)にも、屋島飛行場のことが書かれていました。
その本の編集にたずさわったかたの一人と連絡をとりました。
お話を聞かせていただき、陸軍屋島飛行場のあった場所に案内していただきました。
そのかたの調査によると、陸軍屋島飛行場は、県道155号の新川橋の所から屋島神社の参道がクロスする所までの間にありました。この間は、千メートル以上あるといいます。国道22号でした(その後、国道11号)。コンクリート舗装していました。
観光道路が屋島神社の参道がクロスする所から北の屋島神社参道の両側は立派な松林でした。一九四五年、クロスする所から十数メートルいったところの左側に白っぽい飛行機が数機置いてあったのを見たといいます。松林の下に隠してありました。前の翼に乗って遊んだことがあるといいます。
高松市の男性・Tさん(一九三五年十月生まれ。終戦時は、高松市の二番丁国民学校四年生)は、一九四五年に高松市木太町(きたちょう)に住んでいた女性から、当時聞いた、次の話を教えてくれました。
「(陸軍屋島飛行場の関係で)庭の立派な松の木を切らされた。『飛行機の離着陸とときに、松の木に翼が当たって邪魔になる』ということだった」
木太町は、陸軍屋島飛行場の南西にあたります。
この飛行場は、終戦時にも建設中ですが、私は、少なくとも6月末には使用可能だったのではないかと推定しています(7月4日のアメリカ軍機の高松空襲のときには標的の1つになっていたこと、動員されていた高松中学校の生徒たちが、途中から他の飛行場の建設工事に移っていることなどからの推測です)。
(写真1) 陸軍屋島飛行場と、その周辺=アメリカ軍が1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部
(地図1) 陸軍屋島飛行場の位置=大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分を赤色で書きこみました
(地図2) 陸軍屋島飛行場の位置=現在の地図にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分水色で落としました。