2016年12月19日月曜日

新宿ステレオホール(東京都新宿区) 懐かしいダンスホール

新宿ステレオホール(東京都新宿区)
東京都新宿区歌舞伎町1-20-2 トーアファースト 7F

新宿ステレオホールは開設から50年余、2009年11月末に閉鎖された。





独身時代によく行ったダンスホールは新橋フロリダと新宿ステレオホールであった。特にステレオホールはよくダンスの練習をした。

クリスマスが近くなったころには2階席のような所に陣取って踊ったような記憶がある。キャバレーのような感じのボックス席であった。





通常は疲れるとダンスフロア―横のカウンター席で飲み物を注文していた気がしたがもう遠い昔となりはっきり思い出せない。

もちろんすべて生バンド演奏で二つのバンドが交代で演奏していた。一つが少人数編成のタンゴバンドであった。


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懐かしいダンスホール  昭和時代

尼崎ダンスホールの広告
(『ダンス時代』昭和9年4月、第2巻第7号掲載)
ダンサーとは1曲5銭と記載。




ダンスパレス(『ダンス時代』 

昭和8年10月、第2巻第1号掲載)





昭和ロマンといえば「ダンスホール」がある。昭和の初めには東京や大阪などにダンスホールがたくさんありモガやモボが集まっていた。つまり不良が集まっていて当時の新聞ネタになっていた。

やがて戦時体制が深まるなか、昭和15年7月に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)により、すべてのダンスホールが閉鎖された。

奢侈品等製造販売制限規則(昭和15年商工省・農林省令第2号):
当時の商工省(現:経済産業省)及び農林省(現:農林水産省)が国家総動員法を根拠に発した、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令

そして終戦後、1945年(昭和20)には進駐軍兵士の慰安のためにダンスホールが次々と開設された。しかし、日本人は利用できなかった。

東京では、オアシス・オブ・ギンザをはじめとして、美松、ハレム、銀馬車、グランドパレス、エーワン、ショーボートなどが開業したとのことである。

昭和21年に日本人専用ダンスホールが再開した。


「オアシス・オブ・ギンザ」は銀座・松坂屋地下にあり日本最大のホールで400名のダンサーがいたようである。その後、日本人(敗戦国民)も利用できるようになりダンス雑誌に宣伝が出ている。


熱海にも富士屋ホテルなどダンサーが50名もいる施設が2施設あったようだ。
<戦後復興の明朗化>
ダンサー、芸者、淑女、接客係、通訳、楽士などを募集。
芸者と淑女、接客係との違いが良く分からないが同じ枠で募集している。



<進駐軍用の慰安所・娯楽場>
オアシス・オブ・ギンザ  キャバレ- 銀座松坂屋地下 ダンサ-400名 
千疋屋   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-150名
 耕一路   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-20名
 伊東屋  ダンスホ-ル     銀座三丁目     ダンサ-300名
 緑々館  キャバレ-      銀座西三丁目    ダンサ-50名

パラマウント  キャバレ-    品川 京浜デパ-ト    ダンサ-350名

東光園   キャバレ-    芝浦    ダンサ-30名 慰安婦10名 

小僧閣   キャバレ-     赤羽      ダンサ-100名

ニュー・キャッスル   三鷹     ダンサ-150名 慰安婦100名 

楽々ハウス      調布    ダンサ-25名    慰安婦65名 

立川パラダイス  キャバレ-  立川 ダンサ-50名   慰安婦14名 

富士屋ホテル  ホテル・キャバレ-  熱海      ダンサ-50名

大湯    キャバレ-・ダンスホ-ル  熱海      ダンサ-50名



ここから戦後のダンスホールが営業を開始し戦後のダンスブームが始まった。占領下の東京で専門学校に通っていた母によるとダンスはパーティなどでは必ず踊られたそうだ。

日本占領方式は連合国軍による日本政府を通じた間接統治であった。このため知事よりも進駐軍司令官の方が偉い、権力がある状態であり、地方有力者の結婚式などにも今なら知事を招待する
が進駐軍司令官や高官が招待されたようだ。


また、共産党などもダンスパーティなどを利用して仲間を勧誘したらしい(赤化たらしこみ作戦?)。われわれの学生時代にも、混声コーラス同好会、ハイキング同好会というのがあってきれいなお姉さんにキャンパスで声をかけられて知らずにイベントに参加したことがある。


会社では会社・労働組合主催のダンスパーティが本社、支店、工場ごとに開催されてダンスは親睦会としてよく行われていたがいつのまにか消えてしまった。

それから社交ダンス以外のダンスが多数登場し、昭和の終わりから平成にかけて有名なダンスホールが閉鎖されていったのでそれらを記録に残したいと思う。

独身時代によく行って練習した「新宿ステレオホール」は開設から50年余、2009年11月末に閉鎖された。新宿にはコマ劇場の地下にもダンスホールがあったがこれで新宿からダンスホールが消えてしまった。

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2016年7月10日日曜日

日本共産党「防衛費は人を殺す予算」 「殺人練習する学校」 白鳥事件 宮本顕治リンチ殺人事件

共産・藤野政策委員長「防衛費は人を殺す予算」取り消し NHKでの発言「不適切」認める
産経新聞 2016年6月26日(日)18時13分配信

 共産党の藤野保史政策委員長が26日に出演したNHK番組で、防衛費について「人を殺すための予算」と発言したことについて、藤野氏は番組終了後、発言を「不適切」として取り消すコメントを出した。

 藤野氏は番組で、防衛費が初めて5兆円を超えた平成28年度予算を念頭に「人を殺すための予算でなく、人を支えて育てる予算を優先させていくべきだ」と述べた。

 これに対し、自民党の稲田朋美政調会長は「言い過ぎだ。(防衛費は)日本を守るためだ」と反論し、公明党の石田祝稔政調会長らが発言を撤回するよう勧めたが、藤野氏が番組中に応じることはなかった。

 藤野氏はコメントで、「発言は、安保法制=戦争法と一体に海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものでしたが、テレビでの発言そのものはそうした限定をつけずに述べており、不適切であり、取り消します」と釈明した。

共産党・藤野保史さんの「人を殺すための予算」を小池晃さんは「党の方針と違う」と言うが、共産党は国会でこの言葉をよく使う。

4/27衆外務委「自衛隊が殺し殺される道」
5/31衆本会議「殺し、殺される国」
6/24党首討論「殺し殺される血の同盟」



共産市議、陸自工科学校を「殺人練習する学校」と発言 埼玉・上尾市広報誌への生徒募集掲載中止要請 25日に謝罪へ  2015.12.25 産経ニュース

高校教育と陸上自衛官の人材育成を行う陸上自衛隊高等工科学校(神奈川県横須賀市)について、埼玉県上尾市の平田通子市議(59)=共産=が、市議会で同市広報誌への生徒募集掲載を中止するよう求めた際、「人を殺す練習をしている学校」と発言していたことが24日、議会関係者への取材で分かった。

平田氏は産経新聞の取材
に「多くの人を傷つけ、嫌悪感を与える不適切な発言だった」と釈明し、24日に議事録からの削除を申し入れた。25日に本会議で謝罪後、削除される見通し。

 平田氏は18日の一般質問で、安全保障関連法の成立に伴い「自衛隊の性格は変わった。海外の戦闘地域で他国の人を殺すかもしれない」と主張、市広報誌への工科学校の生徒募集掲載をやめるべきだとした。



日本共産とが関係した白鳥事件 暴力革命
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に発生した殺人事件である。

1952年(昭和27年)1月21日午後7時30分頃、札幌市警察白鳥一雄警部が自転車で帰宅途上、北海道札幌市[2]南6条西16丁目路上で併走する自転車に乗る犯人から射殺され、犯人は逃走している。

白鳥は、札幌市警警備課課長として当時半ば非合法に活動していた日本共産党対策に従事していたことから、捜査当局は共産党関係者を中心に捜査している。事件発生2日後に党北海道地方委員会が「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」と関与を匂わせる旨の声明を発し、党員が市内で「見よ、天誅遂に下る!」のビラを配布していたことから党関係者へ疑惑が抱かれるも、事件直後に村上由党北海道地方委員が「党と白鳥事件は無関係」と関与を否定する声明を発している。

事件発生から4か月後、党員の通報により白鳥殺害に関与しているとの情報が得られて村上国治党札幌地区委員らが逮捕され、共犯として逮捕されたTが「1月3日から1月4日頃に村上ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述するも、村上らの逮捕後も犯行に用いられたとされるピストルは発見されず、事件発生2年前に幌見峠で射撃訓練した際のピストル銃弾のみが唯一の物証として裁判に提出されている。直接の実行犯は当時日本と国交が無い中華人民共和国へ不法出国して逃亡している。

裁判
検察側は村上を殺人罪の共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。第1審札幌地裁は共同謀議を認定し、村上を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。

控訴審札幌高裁は村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴を棄却している。1963年(昭和38年)、最高裁判所が上告を棄却して判決が確定している。
唯一の物証であるピストル銃弾は2年前に発射された銃弾としてはほとんど腐食無く、「旋条痕が白鳥警部の遺体から発見された銃弾と一致したとする鑑定結果はアメリカ軍による鑑定」との証言が上告棄却後に得られて捏造の可能性が疑われ、村上は1965年(昭和40年)に再審請求して最高裁判所へ特別抗告するも1975年(昭和50年)に棄却されている。

不法出国した10人のうち、7人は1973年以降、帰国した。7人の中には殺人ほう助容疑の人が複数いたが、いずれも起訴猶予となってる。本人たちの口は固く、当局は事件関与をいまとなっては実証できないと判断したのだろう。最後まで中国に残ったのは殺人容疑で国際手配されている実行犯とされる佐藤博氏、宍戸均氏、鶴田倫也氏の3人。事件当時、佐藤氏は札幌委員会の軍事委員会直属の中核自衛隊員、宍戸氏は同委員会副委員長格で同隊長、鶴田氏は軍事委員で同副隊長格であった。

1952年10月、日本共産党は衆議院総選挙で前回35議席から、一挙ゼロになった。得票数は300万票が65万票に激減した。日本共産党の極左主義は日本国民にはまったく支持されなかった。

村上 国治(むらかみ くにじ、1923年1月5日 - 1994年11月3日):日本共産党札幌市委員会委員長。1952年に起きた白鳥事件において殺人の共謀共同正犯で有罪となって無期懲役。冤罪を主張したが、再審請求および特別抗告は認められず、有罪は取り消されなかった。仮釈放後に事故死。

「日共(宮本)リンチ殺人事件言論裁判」で共産党が訴えを取り下げ、
  国際勝共連合の言論自由が認められた裁判(1988.12.26)


日本共産党の宮本顕治議長が昭和8年12月に小畑達夫・中央委員に対して斧や出刃包丁、硫酸等でリンチを加えて殺害し、死体を床下に埋めた事件で、宮本に対して傷害致死罪等の判決が確定(昭和19年上告棄却)している事実を「思想新聞」(国際勝共連合の機関紙)昭和53年6月18日号外紙が報じ、それを八王子市内で配布した。

これに対し、日本共産党はその行為が名誉毀損に当たるとして東京地裁八王子支部(古川純一裁判長)に配布差止めの仮処分を請求したところ、古川裁判長は国際勝共連合に対する正式な「審尋」を行なわずに同処分の決定を下してしまったので、国際勝共連合はその処分を不服として処分取消しを求める訴えを提起した。

裁判では日本共産党が国際勝共連合に対して名誉毀損であることを主張し、宮本顕治を証人として法定で証言させるとのことであったが、昭和61年に宮本に対する証人申請を取下げてしまい、更に昭和63年(1988年)12月26日、東京地裁八王子支部(山ノ内一夫裁判長)の第49回口頭弁論において、日本共産党が裁判所の勧告を受けて名誉毀損の訴えを取り下げると同時に、仮処分そのものの申請も取り下げた。

その結果、本件はそもそも思想新聞に対する配布禁止の仮処分自体が無かったこととなり、共産党のリンチ殺人事件の事実認定について共産党が争わないことが明確となったため、約10年にわたる「宮本リンチ殺人事件言論裁判」は実質的に国際勝共連合の自由な言論が保護される全面的勝訴となった。

日本共産党スパイ査問事件とは、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件。

両者は「日本共産党にもぐりこんだ特別高等警察のスパイ」として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定されたが、戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったためGHQから司法省に対し指示があり、判決は無効となり資格回復の措置がとられた。日本共産党側はリンチの存在を否定している。