2016年12月19日月曜日

懐かしいダンスホール  昭和時代

尼崎ダンスホールの広告
(『ダンス時代』昭和9年4月、第2巻第7号掲載)
ダンサーとは1曲5銭と記載。




ダンスパレス(『ダンス時代』 

昭和8年10月、第2巻第1号掲載)





昭和ロマンといえば「ダンスホール」がある。昭和の初めには東京や大阪などにダンスホールがたくさんありモガやモボが集まっていた。つまり不良が集まっていて当時の新聞ネタになっていた。

やがて戦時体制が深まるなか、昭和15年7月に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)により、すべてのダンスホールが閉鎖された。

奢侈品等製造販売制限規則(昭和15年商工省・農林省令第2号):
当時の商工省(現:経済産業省)及び農林省(現:農林水産省)が国家総動員法を根拠に発した、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令

そして終戦後、1945年(昭和20)には進駐軍兵士の慰安のためにダンスホールが次々と開設された。しかし、日本人は利用できなかった。

東京では、オアシス・オブ・ギンザをはじめとして、美松、ハレム、銀馬車、グランドパレス、エーワン、ショーボートなどが開業したとのことである。

昭和21年に日本人専用ダンスホールが再開した。


「オアシス・オブ・ギンザ」は銀座・松坂屋地下にあり日本最大のホールで400名のダンサーがいたようである。その後、日本人(敗戦国民)も利用できるようになりダンス雑誌に宣伝が出ている。


熱海にも富士屋ホテルなどダンサーが50名もいる施設が2施設あったようだ。
<戦後復興の明朗化>
ダンサー、芸者、淑女、接客係、通訳、楽士などを募集。
芸者と淑女、接客係との違いが良く分からないが同じ枠で募集している。



<進駐軍用の慰安所・娯楽場>
オアシス・オブ・ギンザ  キャバレ- 銀座松坂屋地下 ダンサ-400名 
千疋屋   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-150名
 耕一路   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-20名
 伊東屋  ダンスホ-ル     銀座三丁目     ダンサ-300名
 緑々館  キャバレ-      銀座西三丁目    ダンサ-50名

パラマウント  キャバレ-    品川 京浜デパ-ト    ダンサ-350名

東光園   キャバレ-    芝浦    ダンサ-30名 慰安婦10名 

小僧閣   キャバレ-     赤羽      ダンサ-100名

ニュー・キャッスル   三鷹     ダンサ-150名 慰安婦100名 

楽々ハウス      調布    ダンサ-25名    慰安婦65名 

立川パラダイス  キャバレ-  立川 ダンサ-50名   慰安婦14名 

富士屋ホテル  ホテル・キャバレ-  熱海      ダンサ-50名

大湯    キャバレ-・ダンスホ-ル  熱海      ダンサ-50名



ここから戦後のダンスホールが営業を開始し戦後のダンスブームが始まった。占領下の東京で専門学校に通っていた母によるとダンスはパーティなどでは必ず踊られたそうだ。

日本占領方式は連合国軍による日本政府を通じた間接統治であった。このため知事よりも進駐軍司令官の方が偉い、権力がある状態であり、地方有力者の結婚式などにも今なら知事を招待する
が進駐軍司令官や高官が招待されたようだ。


また、共産党などもダンスパーティなどを利用して仲間を勧誘したらしい(赤化たらしこみ作戦?)。われわれの学生時代にも、混声コーラス同好会、ハイキング同好会というのがあってきれいなお姉さんにキャンパスで声をかけられて知らずにイベントに参加したことがある。


会社では会社・労働組合主催のダンスパーティが本社、支店、工場ごとに開催されてダンスは親睦会としてよく行われていたがいつのまにか消えてしまった。

それから社交ダンス以外のダンスが多数登場し、昭和の終わりから平成にかけて有名なダンスホールが閉鎖されていったのでそれらを記録に残したいと思う。

独身時代によく行って練習した「新宿ステレオホール」は開設から50年余、2009年11月末に閉鎖された。新宿にはコマ劇場の地下にもダンスホールがあったがこれで新宿からダンスホールが消えてしまった。

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